吉田松陰の海外密航チャレンジ!松陰は恋愛経験ゼロだった!?
どうも、ゆうまーるです。
今日は前回に引き続き吉田松陰のお話です。
松陰の七転び八起きの密航チャレンジです。
松陰、密航の決意
1853年にペリーが浦賀に来航したとき、松陰は慌てて浦賀に駆けつけたといいます。
そこで、ペリーの率いる軍艦を目のあたりにし、幕府の役人がアメリカの国書を受け取らされる場面に怒りを覚えます。
松蔭は、どうすればこれに勝てるのか頭がいっぱいでした。
それまで、西洋の兵学を何人かの師に教わっていたが、佐久間象山に傾倒し学びました。
しかし、あのペリー率いる軍艦に勝つ方策をどうしても思いつきません。
それは、西洋というものの実態がはっきりしなかったからです。
師の象山からも、西洋の実地を自分の目で見た方がよいという示唆を受け取りました。
ジョン万次郎が漂流し、アメリカ船に拾われ、アメリカに行ったことを参考にし、松陰は密航を決意します。
それまで、自分は何をすべきか、何に青春のエネルギーを賭けるべきかははっきりしていなかったが、ペリーの来航と象山の示唆で松陰は天啓のように自分の為すべきこと知ったと言います。
密航チャレンジ
1回目のチャレンジは、長崎にロシアのプチャーチンが来ていたときです。
プチャーチンに頼み込み船に乗せてもらおうという魂胆でした。
しかし、長崎に向かうまでに入れ違いになってしまいます。
それから、2度目のペリーの来航というチャンスが来ます。
ペリーの軍艦に乗り込むために、漁師に金を払い、軍艦まで連れて行ってもらう約束をしました。
しかし、いざ実行となった時その漁師がビビって船を出さないということになりました。
しかし、怒っても問題が問題だけに公で喧嘩などできないため、この計画は諦めました。
そのあとも同じようなことがあり、ほかの漁師にあたってやっといけると思えば、波が高く船が出せなかったり。
軍艦に薪水を運ぶ公の船に乗せてもらおうとするも、失敗。
松蔭はつくづくついていませんでした。
こうなったら船を盗んで、自分で漕ぎつけようとしするも、遠すぎて断念。
軍艦が来ている間、毎晩のようにチャレンジするも失敗します。
絶たれた夢
3月27日、ついに弟子の金子重輔とともに軍艦への接近を果たします。
最初のチャレンジが3月6日のことであるから、かなりの時間経ちました。
やっとの思いで、ミシシッピ号にたどり着き「アメリカに行きたい」ということを伝えます。
しかし、ポーパタン号に迎えと言われ、結構な距離だったが必死でこぎ着けました。
そこで、松陰と重輔は荷物が乗った小舟を捨て、軍艦に飛び乗りました。
やっと、アメリカに行けると思った矢先、アメリカと日本の間で公式な約束ができたばかりだから、私的な希望には答えられないと断られてしまいます。
ボートで岸まで送ってやると言われ、その際にさっきの小舟に荷物があるから寄ってくれと頼んだが、ボートはそのまま岸まで直行した。
あの小舟が役人に見つかれば密航のことが全部バレるからと、そのあと松陰たちは必死に小舟を探すも見つかりませんでした。
そのため自首し、なんとか死刑は免れたものの幽閉されることになりました。
吉田松陰の人物像
前回も述べましたが、このように吉田松陰は過激なほどに行動を繰り返しました。
松蔭は30歳で処刑されるまで、終身独身でした。さらに、恋愛経験も1度もなかったと言います。
松陰は性的なエネルギーも革命へのエネルギーに昇華させた人物なのです。